「D .E .A .D.について」 という話です
東北のとある街の小さな土地に 小さなおうち(タイニーハウス)を建てました 引っ越してこのおうちに住むまでは まだ少し時間があります ただ今 日々準備をしています
このブログでは その過程や 背景となった考え方や 出来事などを 綴っています
Digital Employment After Death(D.E.A.D)に“NO .”
「わたしは わたしの死後 個人データとAIやCGなどを活用して『復活』させられることを許可しません」
先月行ってきた日本科学未来館での特別展示「君とロボット ニンゲンッテナンダ」で最後の方に投げかけられていた 「問い」です
「YES」か「NO」か 直感的に「NO」の答えのボタンを押してきました
アンケート
日米両国で いずれも「NO」が上回っているそうです
「本人の意思が確認できない中で『復活』させるべきではない」「倫理的にタブーだと感じる」という理由が 上位になっています
「復活させられる」のか「復活する」のか
アンケートの文言は 「復活させられられることに」とあります
しかし これが「復活することに」とか「復活できることに」だったら 回答はどうだったでしょうか
前者の文言で問いかけられても 「NO」の回答をした理由に
「死んだ後にまで 働きたくない」と「復活ができると 生きることへのありがたみが減ってしまう」が足して 30%を超えていました
う〜ん 確かに
定義と法整備
故人やこれから故人になる本人が AIやCG メタバース技術の発展によって よりリアルに生前に近い状態が再現できるようになることは 間違いないでしょう
それに対して まだ「D .E .A.D」の定義が固まっておらず 同様に法整備もなされていない段階で まず 問いかけがなされたそうです
エンタメや会いたい人に
この「ロボット展」では ダリや美空ひばり 夏目漱石など故人のCGが 来場者に語りかけたり 生前と同じように パフォーマンスを披露したりしていました
コンテンツの利用や所有権は明確になっているはずです
また 「D.E.A.D.」に関することでは 「タレントの出川哲朗さんが 亡くなられたお母さんに再会し涙した」「死んだ娘をVRで復活させた涙のプロジェクト」など 復活した故人が 一般人であるコンテンツの 紹介もあります
写真や映像で表現されるのと リアルさ以外にどこに違いがあるのかが 問われるのでしょうか
故人の思い出は胸に
わたしは 亡くなった家族や身内 故人の思い出は 胸にしまっていて 時々思い出したり 線香を焚いて手を合わすだけで 充分だと思っています
現代の技術で どんなにリアルに再現されても 本人とは受け入れないと思います
同じように 自分の場合もそうあって欲しいと考えています
「市井の住人」として「普通のひと」として 平和に幸せに人生が全うできれば 自分の人生がコンテンツとして残ったり 活用されたりしなくてもかまいませんよ〜
だから あまりむずかしく考えずに 直感的に「NO」なのでした
もうひとつ
最近 大変気になっている話題に マルチバースがあって 物質や空間 時間の概念が 従来の固定概念を捨てれば 今までとは全く違う構造を持っていることに 気付くのではないか ということです
すると D.E.A.D. にしろ メタバースにしろ その気づきのための シミュレーションに過ぎないのではないかと 思ってしまうのです
すなわち 人類の進化の過程で D.E.A.D.やメタバースを経て 次のプロセスへ進むひとと 全く別のアプローチで進化を体験するひと そしてそうではないひとの3つの系統の入り口に 立っているような気がするのです
その模索のために わたしには 東北の小さなおうち(タイニーハウス)があるのではないか と考えています
今回は以上です
ノボルでした
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